2016年8月15日月曜日

2つのテキスト

LOKO GALLERY代官山)で開催中の展覧会「ダンダンダン。タンタンタン。 近藤恵介・古川日出男」 にぼくと古川さんがそれぞれテキストを寄せています。
ぼくはギャラリーのwebサイトやチラシにある概要文の補足のようなもの、古川さんは初日の公開制作「今、生まれる譚」に向けたメッセージになっています。
会場でも配布していますが、展覧会をみる際の補助として、あるいは行く前の助走として。



“描く”と“書く”の手元のこと

チラシにある展覧会の内容説明の文はぼくと古川さんが書いたり話した内容をギャラリーがまとめたもので、読んでもらえれば展覧会の趣旨はわかると思うので、ここではもう少し細かい、筆や万年筆が紙に触れる感触くらいの些細なことを。

“描く/書く”ことが“書く/描く”ことを呼び込んで、それが連続して積層して作品ができているのだけれど、“描く”と“書く”を別々の人間が行っているので、それぞれの行為を引き受けて次を“描く/書く”ことになる。絵具の層の上に文字が書かれたり、更にその上に線が引かれたり。そこには必ず齟齬が生じるので、いつものようにはいかない。例えばキーボードで文字をタイプするときに滲むことはない。滲むことは“書く”に予感されていないので、どうしても戸惑うし、滲まなかったことにはできないから、滲んだことで一度立ち止まる。つまずく。

今回の制作中、古川さんはよく文字を見失っている。単純な書き間違いもあるし、存在しない漢字を造ることもある。普段とは違う支持体に書いていること、原稿用紙とはマスの幅も違うし場合によってはそれすらないこと、あるいは筆記具が違うことも原因のひとつかもしれないのだけれど、そうやってふと文字がほぐれたり変態するときに、ぼくたちは目を合わせる。

「譚」が「淡」「談」「ダン」「タン」と変化するように、「タ」と書こうとしたら勢い余ってふたつ書いてしまって「多」になって、その指先の動きの余韻でグルグルっと文字を消したときの手の運動をぼくは“描く”に引き取ってクルクルっと線を引く。

2016.7.11 近藤恵介




公開制作「今、生まれる譚」のこと

 普段、絶対に断わっていることがふたつある。ひとつは、「家のなかを見せてほしい」という依頼。これは、そこであなたの仕事中の写真を撮りたいから、等の理由が添えられたりもする。僕にとって、家の内部はそのまま「目下取り組んでいる作品のための、拡張された脳内」のようなものなので、他人をそこに踏み込ませることはない。次いで、断わることのふたつめ。「小説を執筆している姿を見たい、仕事場にカメラを据えて映像に撮らせてほしい」等の依頼。これも拒む。しかしながら、近藤恵介とやっているこの共同制作で、僕は何度も、他人に「今、ここで書いている姿」を晒している。どういうことなのだろう? ギャラリー内でモノを作る時、スタッフその他が見ている、撮っている、しかし気にしていない。それはどういうことなのだろう?
 過去に二度、近藤とは公開制作を行なった。それは強烈な体験だった。と同時に、僕(たち)にとってだけ、意義深い体験だったわけではないらしい。立ち会ってくれた人が、その強烈さを言葉に換えてくれたこともある。つまり、公開制作とは、それを「見ている」者たちをも確実に巻き込む。より正確に言えば、その「見ている」人たちに僕と近藤が巻き込まれている。
 ギャラリーの展示とは何か? 普通に解説したら、それは「すでに書かれて/描かれているもの」を鑑賞することだ、となるだろう。しかし公開制作においては「書く/描くという行為」を鑑賞することになる。それは鑑賞というワーディングでは言い表わしきれない何事かになる。なぜならば、それは場に、作品に、力を及ぼすからだ。鑑賞ではない鑑賞、あるいは目撃。しかも公開制作を眺める者は、沈黙しつづけているだろうから、僕と近藤も沈黙しつづけているだろうから、黙劇。
 目撃し、黙劇を生む、この劇的な時間に、僕(たち)はみたび向かう。みたび包まれる。

2016.7.26 古川日出男